ブロッコリーが大好物なのに、カリフラワーは絶対に食べることができないヌリ。
色々調べたところ、ブロッコリーとカリフラワーの間には成分的な違いは色素以外にほとんどないため、ブロッコリーが好きならカリフラワーも食べれるはず、らしいです。
そんな実情に、なぜ?と悩むヌリですが、色違いポケモンに違和感を感じるのと同じく、ブロッコリーという比較対象があるからカリフラワーに違和感を感じるのでは、というところに話は展開していきます。
ここでブロッコリーとカリフラワーを一緒くたにして考えており、純粋性批判の話に近しい構造であることに気づきます。
全てをグループ化して考えるのは一種の危険性をはらんでいますが、一方でそれをしすぎないことは別の危険性を持っているとサミーは主張します。
例えば、俯瞰してある種のデータとしてカテゴライズすることに、大きな合理性を有していることは間違いなく、これをしないと話ができないことも事実存在しています。
大事なのは話題の距離感であり、個体を見ているのか、全体を見ているのかは切り分けて考えなければいけない、ということに話は着地します。
いやぁね、こんな話を真面目にしても、食べれないものは食べれないですわ。
頭と感覚っていうのは全く別機関のようです。