分かり合えないことを受け入れる|映画「CODA コーダ あいのうた」の意図を勝手に考察する会

2022年2月11日、今年初めて映画館で映画を観てきたのでその感想を語ります。

「CODA コーダ あいのうた」という映画を観たのですが、ジャケに「アカデミー賞最有力候補」とか書いてあったので、捻くれ者の僕は、なんか胡散臭い映画だな〜とか思いながらも、ろう者の両親を持つ子供の話という点に興味惹かれて見に行った訳です。

話の展開は「アメリカの冴えないティーンエイジャー×家族ものの典型」のように進んでいき、その点では正直あまり面白味がなかったのですが、色々と学ぶことがあったので、今こうしてキーボードを叩いてます。

表題にある、「分かり合えないことを受け入れる」ということについて、映画や挿入歌の話も交えながら、つらつらと語っていきます。

以下、若干のネタバレを含みます。

映画そのものを楽しんでほしいので、できる限りネタバレしないように気をつけてますが、ご留意の上ご静読いただけると助かります。

「CODA」のストーリー

「CODA」がどんな話か、というのは以下みると大体理解できると思います。

豊かな自然に恵まれた海の町で暮らす高校生のルビーは、両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聴こえる。
陽気で優しい家族のために、ルビーは幼い頃から“通訳”となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。
新学期、秘かに憧れるクラスメイトのマイルズと同じ合唱クラブを選択するルビー。
すると、顧問の先生がルビーの歌の才能に気づき、都会の名門音楽大学の受験を強く勧める。
だが、ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられず、家業の方が大事だと大反対。
悩んだルビーは夢よりも家族の助けを続けることを選ぶと決めるが、思いがけない方法で娘の才能に気づいた父は、意外な決意をし・・・。
引用:映画『Coda コーダ あいのうた』公式サイト

※公式サイトや映画内では聾唖者・健聴者と表現されていますが、こういった表現は好きではないので聾唖=ろう者・健聴者=聴者と以降表現します。

主要な登場人物をまとめると、
①ろう者であり聴者のコミュニティを避ける父・母
②ろう者ながらも障害を持っていることで特別視されるのを嫌い、聴者の社会で聴者と同じように生きていきたい兄
③家族で唯一の聴者のため、漁業を営む父と兄の仕事の手伝いをしなければならず、それ故に聴者の社会から疎外感を感じる娘、となります。

また結論の「分かり合えないことを受け入れる」を語る上で、ストーリーで重要なポイントは以下の通りです。

①冴えない娘が合唱クラブに入り、歌によって自分の理想を実現することができるかもしれないということに気付き、ろう者の家族との対比をより強く感じる
②行政機関の介入により漁業が立ち行かなくなったことから、卸を通さず直売を請け負う形で独立することになり、結果的にろう者の家族と聴者のコミュニティを繋ぐ役割として娘の負担がさらに重くなる
③いくら歌が上手くても、いくら美しい歌声を披露しても、ろう者の家族には何も聞こえない
④それでも。。。

映画「CODA」の何が良かったのか

先ほど挙げたストーリーでの重要なポイントの中で、抽象度が高くわかりにくいのが③と④になると思います。

詳細を先出しすると面白くないのであえてそうした感はありますが、この③・④こそがこの映画が評価されている理由だと思います。

映画を普通に見ていると、音が聞こえる僕たちは劇中での娘の歌声そのものに感動することができます。

事実、元々は地味で冴えないろう者の家族を持つ娘として見られていた彼女が、歌によって徐々に合唱クラスで存在を認められるようになっていくのです。

また主人公的な立場の娘ということも相まって、感情的に「娘を音大に行かせろ!」とか、「娘は家族の通訳するをするために生まれた訳じゃない!」とか、「娘にも娘の人生がある!」とかっていう感情を持ちたくなります。

ただ、この感情をひっくり返すようなことが起きます。

話が進み、映画も終盤に差し掛かった頃、合唱クラスの公演のシーンで、突然ろう者の父・母・兄の視点に立ち、娘が歌を歌っている最中に無音になる、という演出です。

いくら僕たちが歌で感動していようが、彼らにその歌声は聴こえていないという現実を突きつけられ、僕はこう感じました。

ろう者と聴者の見ている世界はこれほどまでに違うのか。

ろう者と聴者という関係に限らず、ろう者の父母と兄の価値観を取って見てもそうなのですが、結局相手のことを分り合うことなんて無理なのかも、そう感じました。

大事な娘が歌を歌っても何も聴こえない。自分の側では娘の歌声で感動して泣いてる人がいる。突然皆が立ち上がり拍手する。

どうやら娘は歌が上手いらしい、でもそれを感じることができない自分。

そんなろう者の現実を突きつけられました。

分かり合えなくても、寄り添うことはできる

ただそんな状況であっても、例え歌が聴こえなくても娘の可能性を信じ、結果的にろう者の父・母・兄は娘を音大入学オーディションに送り出すことにします。

それに対して娘は、家族に思いを伝えるために、歌いながら手話で歌詞を表現する、という方法で応える。

誰も相手のことなんて分からないし理解できない。でも大事なことは、「分からないということを受け入れ相手に寄り添う」こと。

この映画を通じて、そんなことを伝えたかったのではないかと感じました。

この伝えたかったことは、オーディションで歌っていた曲からも感じ取ることができます。

オーディションで歌っていた曲「Both Sides now」について

オーディションではJoni MitchellのBoth Sides Nowを選曲したのですが、これがまた名曲中の名曲なので紹介します。

僕自身、高校時代に60年代の曲を漁っていたことがあったので、ずっと大好きな曲なのですが、その歌詞がまさにこの映画で伝えたいこととマッチしています。

割と難解な歌詞なのですが、簡潔に述べると万物の意味なんて結局「I really don’t know at all」ってことです。

同じ物でもその人その人によって物の見方は変わる。

いや、自分自身がその時置かれている感情によってでさえ、物の見方は変わります。

だから、万物の意味なんて、人の気持ちなんて、誰にもわかりはしない。

でも、大事なのはその分からないということを受け入れること。分からないということを知ること。

それを知った上で寄り添うこと。

論語的に言うと、「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」ということが大事。

そんなことをあらためて考えさせてくれました。

とってもいい歌なので、是非歌詞と一緒に聴いてみてください。

歌詞はこちら:

Both Sides Now 和訳 – Joni Mitchell

最後に

いかがでしたでしょうか。

実は手話通訳をしなければいけない娘のポジションは、ポッドキャスト「境界線上に生きる」のナビゲーターである、サミーとジョージにも繋がってきます。

彼らは両親が日本語をあまり話せない関係上、小さい頃から親と大人の間に入って通訳し、ある種理不尽な扱いも受けてきたそうです。

同じような境遇の方は、そういう意味で娘のルビーに一部共感できることもあるのではないでしょうか。

割とこの通訳の話が面白いので、ぜひ聴いてみてください。

あ、ちなみにこの映画「CODA コーダ あいのうた」ですが、色々と考えさせられる素晴らしい映画であったことは間違いないです。

ぜひ機会があれば見てください。

ポッドキャスト【境界線上に生きる】のマネージャー。1994生まれ、ベトナム人顔の日本人。大学卒業前からベトナムに渡り、約4年間現地で働きながら一般的なベトナム人に触れ、生活に溶け込む。趣味はソロキャンプや読書、「墨子」が人生のバイブル。長年躁うつと共生しており、また重度なうつ病歴がある世界観で言葉を綴ります。

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