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僕がマーベルを見ない理由 ~正義と悪の話~ - ON A BORDER'

僕がマーベルを見ない理由 ~正義と悪の話~

僕がマネージャーを務めるポットキャスト「境界線上に生きる」の#83 みんなバイスタンダーって知ってる?の中で、ちらっと『僕はマーベルが苦手』という話を出しました。

正直なところ、いつかの金曜ロードショーでテレビに映ってたスパイダーマン以外は見たことがないです。

それでもマーベルっていうのは”正義のヒーロー”が、”悪の象徴”をやっつける、的なのはなんとなく知っています。

そんな小さい頃になんの気になしにテレビに映っていたから見た、マーベル作品のスパイダーマンに薄気味悪さを感じたことを今でも鮮明に覚えています。

今回は、なぜマーベル作品に薄気味悪さを感じたのか、僕がマーベルを見ない理由というのを、正義と悪の観点からお話ししたいと思います。

もしマーベル好きの方がいたら、ごめんなさい。

マーベルの薄気味悪さの正体

僕がマーベルに対して薄気味悪さを感じるのは何故か。それは実に単純で、時代や価値観、個々人のバックグランドなどによって、正義の対象が変わるからです。

例えば、経済格差という社会問題を例に挙げてみましょう。

富裕層にとっては、富の再分配などという搾取にも近い政策はまさに悪でしょう。だって今日まで目から血を流すほどに学び、働き、苦しみ、その結果として得た富を政府の旗振りによって奪われるのだから、こう思うのはある種当然だと思います。

対して、貧困層にとっては富を分配する政策というのは、まさに正義なわけで、自分たちが今日生きるのに精一杯なのを横目に、必要以上に富を抱え込み、豪勢な生活を送っている富裕層は悪の存在なわけです。

僕はそこに本来なかったはずの対立軸を生むことがあるから、正義と悪なんて存在しない方がいいと思っています。

にも関わらず、ある人を正義のヒーローとして祭り上げ、ある人を悪者として蔑む。悪者はみんなにとって害だから、一緒に正義を応援しよう、そんな作風に気持ち悪さを感じるのです。

正義と悪が存在しない方がいいと思う理由

正義と悪に関わらず、何かしらに言葉をつけて、境界線を引き、対立し得るような構造を作ることはしない方がいいと思ってます。

対立構造を作ると何が起きるか。そこには必ず負の感情が生まれ、互いに憎しみ合うような構図になるのです。

もちろん、自分の中で正義と悪を区別することは自由です。ただそれを社会に持ち込み発信した時に、対立構造が発生する可能性が極めて高いと思います。

誰かの正義は誰かの悪であって、誰かの悪は誰かの正義。

そう考える自由をマーベルという作品は奪っているから気持ち悪い。僕がマーベルを見ない2つ目の理由です。

マーベルは考える自由を奪っている

マーベルには、ポピュリズムに似た気持ち悪さを感じます。結論から言うと、前項でも述べたように考える自由を奪っている、と感じるからです。

ていうか、そもそもポピュリズムの構造ってなに、というのを僕なりに解説したいと思います。

ポピュリズムは思考の放棄をもたらすものです。

何かしら不満が溜まり込んだタイミングで、誰かが「無理矢理」対立軸を作り、「表面的な不満」を取り除くためのアイディアを掲げる。

その結果、世の中には「分断」が広がり、よりポピュラーなアイディアを掲げた方が「正義」の存在となる。

ただ、彼らの目的はあくまでポピュラーな存在になることであって、「根本的な不満」の解消ではない。

根本的な不満の解消はされない一方で、一度作った分断は簡単に壊すことができないため、半永久的に「対立構造」が残り続ける。

これってマーベル作品と同じ構造だと思います。「正義と悪の対立軸」を作った結果、当然よりポピュラーな「正義」が人々に応援される対象となる。

正義は悪を成敗するけど、それは「表面にいる悪」を取り除いただけであり、影に隠れている悪の存在の中には「更なる憎悪」が生まれ、正義と悪の対立軸は半永久的に消えることがない。

その結果、様々なキャラクターでたくさんのエピソードがマーベル作品として作られ続けている。

見ている誰もが正義を応援し、悪がなぜ悪であるかを考えようとしない。それどころか、誰しも正義が悪の存在を消し去るのを待ち望んでいる。

あの作品を見て悪者を応援している人なんてほとんどいない。

だからマーベルはそれを見ている人たちの考える自由を奪っているに等しいのです。

悪にだって正義がある

一般的に悪と称される人にだって、彼らなりの正義があります。それは犯罪者にだって、独裁者だって、バイキンマンだって。

僕はジョーカーが日本で流行ったと聞き、ある種の嬉しさを感じました。悪にだって正義がある、そんなことをわかってくれた気がしたから。

大事なのって例え悪者であっても、その背景を少しでも理解しようとする姿勢なんじゃないかって思います。

自分以外の人のことを理解しようとする、そんな兼愛の精神こそ人間が持つ優しさの正体であり、僕が「人の本質は光だ」と思う理由です。

もちろん、僕自身すら気づかない間に人や物事を正義と悪に分断し、こうして思想を社会に発信している時点で、知らず知らずのうちに誰かを傷つけていることでしょう。

でも、それは誰だって同じだと思います。

大事なことは誰かを傷つけた時も、傷つけられた時も、相手の気持ちを考えることこと。これができれば、この世界が少しだけ優しくなるんじゃないかな、って思います。

僕がマーベルの話をチラッとしたPodcastのエピソードはこちらから。

余談

僕はマーベルを見ない理由と同じく、アンパンマンも見ません。

アンパンマンはみんなの正義であると同時に、バイキンマンやドキンちゃんにとっての悪であることも忘れたくないですね。

いつか、バイキンマンにとっての正義と悪とは、という話を書きたいな。

ポッドキャスト【境界線上に生きる】のマネージャー。1994生まれ、ベトナム人顔の日本人。大学卒業前からベトナムに渡り、約4年間現地で働きながら一般的なベトナム人に触れ、生活に溶け込む。趣味はソロキャンプや読書、「墨子」が人生のバイブル。長年躁うつと共生しており、また重度なうつ病歴がある世界観で言葉を綴ります。

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