2021年12月24日、仕事終わりに行きつけの美容院を予約し、クリスマスに誰に会う訳でもなく、髪を切ってもらいに納屋橋にある美容院に行きました。
美容院にも毎回本を持参し、髪を切っている時は読書をしているのですが、いつもシャンプーを担当してくれる小柄で小説好きな女性とお話しするのがお決まりで、
「いつもどんな本読んでるですか?」、「私小説ずっと読んでるのですが、何かおすすめありますか?」、「川上未映子好きなんですか?私も好きです!」
人見知りな僕でも話しやすいよう、毎回ガンガン質問飛ばしまくってくるあの美容師さんになんとなく心を開いていた僕ですが、クリスマスイブに中々鋭い質問をもらいました。
美:「今日はどんな本読んでるのですか?」
ヌ:「與那覇潤さんの知性は死なないって本を読んでるんです〜。與那覇さんっていう歴史学者が鬱になって・・・で、知性が・・・って話っぽいです、まだ全部読んでないですけど」
美:「なるほど〜でも知性ってどういうことですか?」
ヌ:「おおお〜鋭い質問ですね〜いや〜哲学ですな〜」
みないな感じで会話が広がっていったのですが、「知性とは何か」という問いに、完全に面食い、その場できちんとした回答ができなかった、というのが正直なところです。
ということで今回は、あの名前も知らない小柄な女性美容師さんの問いに勝手に答えていく、という自己満コラムを書いていきます。
前提として、知性とは何かという問いに答えるにあたり、「知性とは〇〇だ」と直接的に表現しても個人的になんも面白くないので、知性の周りにある「認識」というところから出発し、その中で「知性の立ち位置」を明確にし、美容師さんへの答とします。
ちなみに、色々な哲学者たちの力を借りていますが、めっちゃかいつまんで、哲学に触れたことない人でもわかりやすいように、でも好きな文章は少し引用しながらまとめているので悪しからずです。
知性と理性と感性 – カントによる知性の解釈
まずはカントの「純粋理性批判」を参考に「悟性」・「感性」の関係性について述べていきます。
始めに「純粋理性批判」における知性は、「悟性」として日本語訳されることが多く、「悟性」=「知性」であることを前提に話を進めていきます。
カント曰く、人間の認識構造は「感性」⇨「悟性」(⇨「理性」)の順で構成されているらしいです。
対象は、感性を介して我々に与えられる、また感性のみが我々に直観を給するのである。ところが対象は悟性によって考えられる、そして悟性から概念が生じるのである。しかしおよそ思惟は、我々人間にあってはまず感性に関係する、対象はこれ以外の仕方で我々に与えられることができないからである。
まず、人間がモノを認識する順序というのは、感性という第一フィルターを通ることになります。
ただこの時点ではそのモノ自体の概念を掴めることができず、感性の後に次ぐ「悟性」のフィルターを通るによって概念を理解するということです。
平たく言えば、「感性」は受動的にモノをそのものを認識する能力であり、対して「悟性」は自発的にそのモノはなんなのかというのを理解する能力と言えるでしょう。
つまりカントによる「知性」の解釈は、人間が物事(表象)を認識するにおいて、その物事はなんであるかを構造的に理解する力、ということだと思います。
「知性」のプロセス – ロックによる知性の解釈
次に、ロックの代表作「人間知性論」からロックによる知性とはなんなのかというのを考えていきます。
この本では、「知性の限界を知ることで、知性をよく用いることが可能となる。では知性の本質的な構造は何か?」ということについて述べています。
本書の前提として、ロックは「知性」の対象は「観念」である述べています。「観念」が物事に対して抱く主観的な考えであるとした時、「知性」は対外的なものではなく、あくまでそれぞれが「心の内に抱く物事の理解」と言えるのではないのでしょうか。
カントの知性のプロセスを若干引用しながらまとめると、ある対象が”感性”を通じ、「観念」を通して「内省」されることで、「知識」となる、これこそがロックが述べる「知性」のプロセスであると、僕は受け取っています。
五常における「智」 – 儒教による知性の解釈
僕の知っている限り、孔子やその弟子によって「知性」という言葉を用いた書籍は知りませんが、五常における「智」の概念が「知性」の意味をまとめあげるのに適していると感じたので、ここで取り扱います。
五常とは、儒教において重要視されている「仁」・「義」・「礼」・「智」・「信」からなる五つの徳目です。
結論から言うと、「智」とは「単なる知性ではなく道徳的に認識し、また判断する能力」であるとされています。
重要なのは、「道徳的に認識し、また判断する」ことであり、ここでいう道徳的とは、五常のうちの「仁」・「義」・「礼」だとされています。
荀子がこの関係性をうまく述べているので見ていきましょう。
惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。
どういうことかというと、「憐れみの心は仁の芽生え、不善を恥じる心は義の芽生え、譲り合う心は礼の芽生え、善悪を判断する心は智の芽生えである」ということであり、「仁」・「義」・「礼」を以て初めて善悪を判断でき、「智」へと昇華することができる、と僕は解釈しています。
カント・ロックの知性のプロセスと無理矢理まとめるとこうなるのではないでしょうか。
『ある対象が”感性”を通じ、「道徳的に善い行いと判断される知性」によって”内省”されることで、”知識”となる』、これが僕が辿り着いた知性のプロセスの答です。
まとめ – 僕が思う知性
「過去の経験や知識などから創造される思想において、道徳的な善悪を判断できる能力」が知性であるとまとめさせてもらいます。
僕はカントやロックのような西洋哲学よりも、無論孔子や孟子のような東洋哲学に傾倒している人間ではなので、勘の良い人はあまりに儒教的な要素を多すぎね、とお気づきのことでしょう。
本当はもっと儒家的な、いや墨家的な要素を大量に取り入れて解説してみたかったですが、それはまたの機会で。
ではでは。